Search
Calendar
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
Sponsored links
Recommend
New Entries
Recent Comment
Category
Archives
Profile
Links
mobile
qrcode
RSSATOM 無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

posted by: スポンサードリンク | - | | - | - |-
1.空の思想/1−1ネットで調べた『空の思想』

◆◆◆ 4−空(くう)と無(む)の思想 ◆◆◆ 

プロローグ
 .曄璽爛據璽犬悗UP終了
◆ー,離董璽沺人縦衒儿
 ブログへの記事投稿の間隔
資本主義崩壊のプロセス
はじめに
 _柔于修靴進教
◆ゞと無は縦糸と横糸の関係
−−−−−−−−−−−2010.10.07に続く−−−−−−−−−−−−−−−

1.空の思想

 般若心経にある『色即是空、空即是色』という言葉にある《空(くう)》について、その本来の意味、釈迦が言わんとした意味について考えてみましょう。この空の核となる意味が正しくわかると、色々なことが容易に理解できるようになると思います。

 その前に、釈迦の教えが化石化してしまい、哲学として思想として如何に難解なものになってしまっているかを観てみましょう。もちろん、難解であるということは、正しさとは無関係なことです。本来、易しいことは易しい言葉で語るべきであり、易しいことを難解にしてしまったのは、本来の意味がわからなくなっているからです。

 その混乱ぶりを確認した上で、私の真説『空の思想』を読めば、空という意味が如何に当たり前の事であるか、を容易に理解できるでしょう。

1−1ネットで調べた『空の思想』

 ネットで調べた空の意味を紹介します。その文章を読んで、理解できる人はいないだろうと思います。それを無理に理解しようとするところに、物事を難しくしてしまう要素、哲学的に論理をひねくり回していく要因があると私は思います。

 ゞ (仏教) - Wikipedia から抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

−−−−−抜粋1−−−−−−
 仏教の空(くう、梵: शून्य、巴: शुञ्ञ)とは、固定的実体もしくは「我」の無い事や、実体性を欠いている事を意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらない。
−−−−−以上抜粋−−−−−−

◆ 抜粋1について

 固定的実体、我、実体性、という言葉遣いそのものに問題があります。固定的実体とは、本来の何か実体があって、それが固定されているか、されていないかを問題にする言葉です。例えば、実体を仮に《水》とすると、固定された実体とは《氷》である事になります。

 従って、実体性を欠いているとは、実体が無い、という意味となり、すなわち何もないという意味になります。

 空とは何もないという意味であるとすると、『色即是空、空即是色』という言葉に矛盾が生じます。後ほど説明しますが、色とは目に見える物質または現象を指す言葉であるのですか、そうすると、物質とは在るように見えて実は本来何もない、本来何もないのに実際は物質がある、そういう意味の言葉になってしまい、論理性を欠き、全く理解できない説明になっていきます。

 更に《我》という言葉も諸説があり、聞けば聞くほど本当に分からなくなると思います。しかし、《無我》という言葉がありますが、本来の正しい意味の《我》があるのです。それが無いのが無我なのであり、無我は何も無いという意味ではありません。これは、《無》と深い関係がありますから、そこで考察してみたいと思います。

 更に、空について別の説明を見てみましょう。

◆ゞ (仏教) - Wikipedia から抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

−−−−−抜粋2−−−−−−
仏典の用例 [編集]
「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」 -- 『スッタニパータ』
「空虚な家屋に入って心を鎮める」 -- 『法句経』
「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」[1] -- 『法句経』
「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空ではない(残るものがある)」 -- 『小空経』(中部経典、中阿含経)
欠如と残るものとの両者が、空の語の使用と重なり説かれている。これから空を観ずる修行法が導かれ、空三昧(ざんまい)は無相三昧と無願(無作)三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門(さんげだつもん)とも言う。・・・・・・・・・・
−−−−以上、抜粋−−−−−−−−

◆ 抜粋2について

 筆者は、仏典についての知識が全くありません。空という言葉を、ものが欠如している状態という意味であるとしていますが、実に空しい修行方法だと私は思います。そこから、何かを得ることができるのか、何かを悟ることができるのか、非常に疑わしいと私は思います。

 ある人が、空と観ぜよ、と言いました。弟子が、分かりました、空と観じました、言ったとします。お互いに何かを悟った気分を味わう事ができるかも知れませんが、これでは自慰的行為と何ら変わりありません。

 牛は居ないから空である、比丘(男性の僧侶)は居るから空ではない、としているのは実に滑稽な説明であり、釈迦がこのような言葉遊びをしたわけがありません。しかし、この様な空虚な解釈と説明をせざるを得ないほど、混乱し、分からなくなっているのです。自ら掘った落とし穴に堕ちて、なんとか這い上がりたいともがいている姿に似ています。

 続いて、更に別の説明をみてみましょう。

続く


読者が増えることを願い、クリックの御協力を御願いします。
              ↓
 
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=kumano

神理の総合HP 「七つの封印」 http://www.the-seven-seals.jp/

posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | 心の浄化/発展 | 08:53 | comments(0) | trackbacks(0) |-
スポンサーサイト
posted by: スポンサードリンク | - | 08:53 | - | - |-









この記事のトラックバックURL
http://thelawsofgod.jugem.jp/trackback/199
トラックバック