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霊的な罪とは何か5

◆ 1−7 霊的な罪とは何か/マタイ【25-29】「持っている人」の意味

マタイ【25-29】 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

  これは、どういう意味でしょうか。先の、三人の僕(しもべ)とご主人様のたとえ話の結論として、神が述べられた言葉ですから、大事な教訓・神理が書いてあります。

 前回までの私の説明の中で、神は人間に何を期待し、何を望んでおられるのか、そういう説明をしました。簡単に言えば、魂の成長です。魂の成長は、自ら獲得するものであり、本来、神や人から与えられるものではありません。

 では、新しい環境で、時代を超えて様々な経験を積む上で、何が必要でしょうか。人は、自らの肉体を傷つけたり、病になったりすることを恐れます。同様に、自分の心が傷つけられることを恐れます。

 また、神を信じる方は、神を恐れる余り、自分を小さく小さくしようと、また善人であろうとします。しかし、与える愛を実践し、人を活かそうとすれば、時には厳しく見えることをしなくてはなりません。例えば、子供がアイスを欲しがる、チョコを欲しがる時、親は欲しがるままにあげるでしょうか。

 皆さんも経験があると思います。時には、我慢しなさい、と教えるでしょう。愛とは、だだ単に与えるだけでは、その人を駄目にしてしまうのです。その人の心が成長するように、適宜に必要な時に必要なだけ与えていくのが、真の与える愛です。時には、子供が転んで怪我をし、泣き叫んでも、自ら立ち上がるまで、勇気を持って温かく見守るのが、親であり神であります。

 また、この世は善悪が明瞭に見える世界ではありません。そして、善でも悪でもないものが沢山あります。善になるか、悪になるか、その人次第である、そういうものも多いのです。お金の使い方などはその一例です。

 皆さんの生活の中で、善か悪か判断できない、またそうして良いのか、良くないのか、右へ行けばいいのか、左へ行くのが良いのか、選択肢が三つもあると、さてさて考え込むことが多いのが、私達が生きている世界です。

 その中で、常に何かの選択をし、成果を得ていかなくてはなりません。その選択の連続の中で様々な判断をしなくてはなりません。この時、失敗を恐れて易しい選択(妥協)をするか、失敗を恐れず難しい選択(理想を追求)をするか、その選択はその人の心を試すことになります。

 困難であればあるほど失敗の可能性が高くなり、また苦しみを味わうことになります。しかしその困難な道は智慧を獲得する大きな切っ掛けとなるものです。人生の大事な問題であればあるほど、失敗や苦しみを恐れない勇気が必要です。

 自分の過ちや誤りを素直に認めない方がおられます。自分という魂の領域を侵されると勘違いし、その恐れの余り、認めようとしないのです。これも勇気の欠如ではないかと思います。過ちは過ちとして素直に認め、謝罪するのが真に自分の魂を育てる事になるのですが、その勇気が無く、結局は自らの魂を傷つけている事になります。

 何が言いたいかというと、魂の成長には勇気が必要なのです。失敗を恐れない、自分の肉体や心が傷つくことを恐れず、チャレンジする勇気です。人を育てるのも、自分を育てるのも同じです。魂の進化と成長のために、弱い善人ではなく、強い善人を目指すべきなのです。

 チャレンジして、仮に失敗したとしましょう。例えば、政治家は堕落する可能性の非常に高い職業ですが、それに挑戦し、生まれたとします。努力の甲斐あって、念願の政治家になって総理まで務めた。しかし、金まみれとなり、結果は地獄で呻吟することになった。

 しかし、地獄で深く反省し、首尾良く再び天国に戻れたとします。そして、また挑戦します。そして、地獄に堕ち、またはい上がります。そうやって、魂の足腰が強くなり、やがて堕落せずに優れた政治家となり、死後まっすぐに天国へ帰ることができるようになります。

 この世の半分の方が地獄へ行くという統計がありますが、精神世界に興味を持つ方は、もちろん、その可能性は低いでしょう。しかし、地獄へ堕ちる事を恐れている方は、貴方は危ないと言っておきます。

 最も、何も考えない人でも、墜ちる人は墜ちます。しかし、地獄行きを心配して「くよくよ」するような気の弱い人は、たとえ《何一つ悪いことをしなくても一番危ない》のです。自分自身の魂を傷つけることになるからです。

 積極的に自分を鍛え、魂の成長のためには失敗を恐れず、勇気を持ってチャレンジすることを神は喜ばれるのです。チャレンジの結果、地獄に堕ち、地獄で呻吟している様を神は観たとしても、慈悲の涙を流されつつ、我が子が再び天国の世界へ自らの力ではい上がってくるように願っておられるのです。

ヨハネの黙示録 [21-8]に、

『しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄(いおう)の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』

 第一の死は肉体の死を意味し、第二の死は地獄に堕ちる事を意味します。その地獄に堕ちる者の筆頭に《おくびょうな者》と書かれているのです。これを理解するならば、

マタイ【25-29】は次のような意味になります。

マタイ【25-29】 おおよそ、チャレンジする勇気を持っている人は更に智慧を獲得して、いよいよ心が豊かになり魂が成長するが、チャレンジする勇気を持っていない人・臆病者は、今まで獲得した智慧までも失い、魂としては退化することになるだろう。

  自分の魂を自分で傷つけるということは、神から預かっている魂を傷つけ、神の願いに反する行為であるのです。神の子として、親不孝者というわけです。すなわち、神に対して大いなる罪である、これが私の結論です。

 以上が、霊的な罪の第二の説明です。



参考 心と脳 http://www.the-seven-seals.jp/mindworld/mindindex.htm
    霊と魂 http://www.the-seven-seals.jp/spiritworld/spiritindex.htm


posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | | 09:04 | comments(0) | trackbacks(0) |-
霊的な罪とは何か4

◆ 1−5 霊的な罪とは何か/自ら魂の成長のための努力をしたか

 魂の成長とは何か、というテーマに関しては長くなるのでまたの機会にしますが、進歩と調和の二大原理から言えば、愛の進化という視点が必要不可欠です。すなわち、愛する愛、与える無償の愛、人を活かす愛、人を許す愛、・・・というのが、進化する愛です。

   霊的な罪とは何かというテーマに対しては、色々な切り口があるでしょうし、色々な説明をすることは可能だと思います。しかし、私が最も大事な点と考えている魂の成長という視点から論じてみることにします。

 1-1から1-4 の内容を整理すると、

 /世蓮⊆らのエネルギーを分光させて人間の魂を創られた。よって、人間は神の子であり、生まれながらにして神の属性を持っている。

◆/世蓮我が子である人間の魂の成長と進化の舞台として、この三次元宇宙を創成された。

 神は、転生輪廻を通じて我が子が様々な経験を積み、智慧を獲得することを期待されている。

ぁ/祐屬蓮△海寮い棒犬泙譴訥樵阿法△海寮い任僚す垈歛蠅鯀瓦Δ垢襪海箸鮨世棒戚鵑掘誕生を神より許可された存在である。

ァー藐醂遒蓮△海寮い棒犬泙譴深分の分身が、首尾良く修行課題を学ぶことを心より期待し、願っている。他の魂の兄弟も同様である。

 ここで大事なことは、《神は、我が子が自ら成長するために努力することを望んでおられる》という事です。

 ということは、《平穏無事にいわゆる善人として、幸福な一生を終えた。》というだけであるとするならば、神は果たして喜ばれるか、こういう問題を考えてみましょう。

◆ 1−6 霊的な罪とは何か/マタイ【25-14】3人の僕(しもべ)の例え話

  マタイ【25-14】に次のようなたとえ話をイエスはしたとあります。少し長いですが、ここに霊的な罪を考えるヒントがあります。

14 ¶また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
15 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
16 五クラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
17 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
18 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになリましたが、ごらんのとおリ、ほかに五タラントをもうけました』。
21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕(しもべ)よ、よくやった。あなたはわずかなものに、忠実であったから、多くのものを管理させよう。主入と一緒に喜んでくれ』。  
22 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様,あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
23 主人は彼に言った、『良い、忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様,わたしはあなたが,まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました』。
25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈リ、散らさない所から集めることを知っているのか。
27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んり、歯がみをしたりするであろう』

日本聖書教会1975 /新約聖書より抜粋

 キリスト教者はこの話をどのように説明されるか、私は知りません。キリスト教は輪廻転生を認めておりませんから、たぶん私のような説明はしないと思います。

 これは天国というものをイエスが人々に説明するためのたとえ話です。そこで、

○ ご主人 = 神、僕 = 人間、とします。
○ タラント = 才能または智慧の蓄積、とします。
○ ご主人が旅に出る = 僕(しもべ)が下界に生まれる、とします。
○ もうける = 心の修行をして智慧を獲得する、とします。
○ [24  まかない所から刈リ、散らさない所から集める酷な人] の意味を、英語の原文から読み取ると、「まかない」とは種を蒔かないという英語が使われており、「散らさない」とはもみ殻を吹き散らすという意味の英語が使われており、「酷な人」はhardという単語が使われており、「理解しにくい」とか「難しい」とかの意味がありますので、その全体の意味は、

[種を蒔かないのに刈取りをし、もみを飛ばさないのに脱穀した穀物を得ることができる、ご主人はそういう不思議な力を持ったお方である」

 というのが、正しい翻訳であり、また真意であると思われます。翻訳された聖書の日本語だと何の事やらさっぱり理解に苦しみますが、私の説明でなるほどと納得される方が多いのではないかと思います。

 従って、ご主人様は神様である、という事が証明されました。前置きが長くなりましたが、ここから、本題に入ります。

 僕(しもべ)達は、元手となる智慧を携えて、下界すなわちこの世に生まれます。能力のあるものも、能力の少ないものも、その能力・智慧はもともと神より元手として授かっているのです。

 ある者は、五タラントの智慧を預かっており、努力して更に五タラントの智慧を獲得し、そして天国へ帰り、神に報告します。神は、少ない元手・智慧にも関わらず、良く努力したと褒めます。

 またある者は、二タラントの智慧を預かっており、努力して更に二タラントの智慧を獲得し、そして天国へ帰り、神に報告します。神は、少ない元手・智慧にも関わらず、良く努力したと褒めます。

 そして、一タラントの智慧を預かった者は、神を恐れる余り、すなわち商売に失敗して元手を失い、神から叱られることを恐れて、一タラントの智慧を使うことをせず、すなわち地上で何の努力・チャレンジもしなかった。すなわち神から預かっている智慧を元手を使うことをせず、その元手を使って更なる智慧を稼がず、そして天国へ帰えり、神に報告します。

 神は、お前は私が授けた一タラントの智慧を、私を恐れ、失敗を恐れ、チャレンジをしなかった、この《臆病者》、この者を暗いところ、すなわち《地獄で反省》させよ、と言います。

 そこで、初めて、神の真意を知り、この僕(しもべ)は《ああ、そういう意味だったのか、せっかく地上に生まれたのに、失敗した、悔しい、私は愚かだった》と、反省所( 地獄の一丁目)で泣き叫び、歯がみをすることになるのです。

 死んでから後、地上に生まれた意味を知り、後悔するという喩え話です。これは神に叱られるという事ではなく、自分自身の魂を汚すことになるのです。霊的な罪とは何か、以上が私の第一の説明です。ところで、

29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

 の意味を読者はどのように理解しますか。賢明な読者は、今までの説明から、推測できると思います。次回、霊的な罪とは何か、第二の説明をします。

続く

参考 心と脳 http://www.the-seven-seals.jp/mindworld/mindindex.htm
    霊と魂 http://www.the-seven-seals.jp/spiritworld/spiritindex.htm

posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | | 09:36 | comments(5) | trackbacks(0) |-
霊的な罪とは何か3

◆ 1−4 潜在意識、表面意識、魂、心は全て自分である

 前置きが長くなりましたが、ここで改めて、ある読者の御意見である《潜在意識(魂)より表面意識(心)にとらわれるのは、唯物主義的である》という説を思い出してください。

 1-1で魂と心の関係、1-2で潜在意識と表面意識、1-3でカルマ・業・原罪・個性について著者の説を説明してきました。ですから、著者の立場から言うと、上記の説は的を得ていないということになります。

 《潜在意識、表面意識、魂、心は全て自分である》ということがお分かりいただけたでしょうか。潜在意識における【魂の兄弟の部分】に対しては、この世にいる立場から考えると、自分では無いように見えますが、あの世に帰った後、新たな知識と経験を共有しますから、その時点で全員(全部が自分)の心の修正が最終的に行われるのです。

 ただし、元の世界へ、死後まっすぐに、直ちに帰れるかどうかは別であり、地獄に堕ちた場合は当分の間、難しいことになります。

 現在、《魂の兄弟の代表》として貴方が生まれているのであり、今世の貴重な時間を与えられている事になります。であるならば、天国の魂の兄弟達が、貴方に対しての念い、期待、希望はいかばかりか、そこに貴方は念いが向かうはずであり、天国の魂の兄弟の心を思えば、身が引き締まるほどの責任を貴方はお感じになるはずだと私は思います。

 次に生まれ変わる予定の守護霊となっている魂の兄弟は、貴方を霊的に指導する立場にあり、その方の念いが貴方に通じず、生まれるときの約束《神の契約》を忘れている貴方を観て、また間違った方向に行っている貴方を観たならば、守護霊は自らの指導の至らなさを嘆かれると同時に、貴方に涙されるであろう、と思います。

 次に、投稿された読者のメインテーマである《霊的な罪》について考えてみましょう。以上の説明から、賢明な読者には既にお分かりと思います。しかし、更に高次元の意識、神の心を鑑みて考えたいと思います。

続く

次回以降の予定
◆ 1−5 霊的な罪とは何か/自ら魂の成長のための努力をしたか
◆ 1−6 霊的な罪とは何か/マタイ【25-14】3人の僕(しもべ)の真意
◆ 1−7 霊的な罪とは何か/マタイ【25-29】「持っている人」の意味


1−7で読者の御意見に対する私の説明を終える予定でいます。その後は、再び《私の心の旅》に戻ります。ご期待下さい。

参考 心と脳 http://www.the-seven-seals.jp/mindworld/mindindex.htm
    霊と魂 http://www.the-seven-seals.jp/spiritworld/spiritindex.htm

posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | | 08:50 | comments(0) | trackbacks(0) |-
霊的な罪とは何か−2

◆ 1−2 表面意識と潜在意識

 表面意識の定義としては、この世に生まれてから蓄積・構成された意識と言えると思います。潜在意識は、生まれるときにあの世から蒔かれた種の部分と、魂の兄弟(自分の全エネルギー・守護霊を含む)に繋がる部分とに分けられると思います。

 表面意識は生まれると同時に、徐々に成長し、やがて自我が芽生えます。お乳が欲しいと泣き、おしっこで気持ち悪いと泣き、心地良いと笑います。自我は、赤ん坊の時から既に育ち始めます。やがて、自と他を区別し、比較し、環境や様々な経験の中で、自己防衛本能や自己顕示欲、さらに名誉欲や支配欲なども芽生えていきます。

 しかし、表面意識はこの世で獲得した自分という意識であり、心であり、魂であるのです。あの世に持って帰るのは、この世で獲得した表面意識と種の部分の潜在意識です。この種の部分の潜在意識も修正が可能です。表面意識の強い意志により、繰り返し心に刻むことで、無意識に考えてしまう心の方向性・傾向性を修正して行くことができます。

 悪いことばかり心に刻み続けると、そのように潜在意識も修正され、更に悪霊が自在に出入りし、やがて表面意識も多大な影響を受けます。良い習慣を刻み込めば、種である潜在意識は更に奥の潜在意識である守護霊に通じ、そして神に通じていきます。

 あの世に帰り、魂の兄弟とのエネルギー融合の儀式により、この世で得た知識と経験が全兄弟に共有され、心の傾向性もまた修正され共有されていきます。そして、次に生まれる魂の兄弟に、その修正された心の傾向性が引き継がれます。

 ですから、この世の魂の修行、すなわち心の修行、表面意識と種の部分の潜在意識の修行、その一つは心の傾向性の修正であり、もう一つは新しい出っ張りを創って帰ることなのです。新しい出っ張りとは新しい経験であり、表面意識の今までにない努力の成果であるのです。また場合により、へっこみを創ってしまうこともあります。

◆ 1−3 カルマ、業、原罪、個性

 カルマは何故できたのか。これは魂の誕生と進化に関わる大切な問題です。人間は罪の子であるという原罪説は誤りです。

 神の秘密に関する領域ですが、私の認識では遙かに大昔、神の意志により神の光・エネルギーが分散されて小さな無数の光の粒子となりました。その当時は、みな同じ性質、同じ意識を持っていました。魂の誕生です。

 神は我が子である光の粒の成長を望まれ、その成長の場としてこの三次元宇宙を誕生させました。そして三次元と高次元の転生輪廻を通じて、様々な経験を積めるような仕組み・システムを創られました。

 地域と時代を超えて様々な経験を積み、生まれ変わる内に、次第に個性が異なり、意識において異なる光の粒、神の子となっていきました。この地球においては、ある時、魂の分光によって魂の兄弟を創り、すなわち五人の兄弟と本体の六体に別れて、魂の修行を続けることになりました。

 個性の部分、異なる意識は魂の成長過程によってできたものです。癖、好み、性格、心の傾向性というのは、魂のでこぼこ具合を表しています。この心の傾向性というものは、別にそれ自体が悪いことではなく、時と場所、その現れ方によって、悪となりまた善となります。

 ですから、本来、カルマ、業というのは善でも悪でもなく、人間は生まれながらにして善であり神の子です。ただし、魂の経験が浅いため、その顕現の仕方、心のコントロールが正しくないために悪と見える場合が現れるということです。

 カルマ、業、原罪というものは、魂の進化の過程に生じる凸凹のことです。育ち盛りの子供が、手が伸びた、足が伸びた、服が合わない、靴が履けなくなった、といろいろと不調和が生じるのに似ています。手や足が伸びて大きくなることは喜ばしいことなのです。ですが、親としては買い与えないといけないし、本人はみっともないと文句を言う、そう喩えられます。

 従って、カルマ・業は避けては通れないものだという認識が大事であり、悪でも何でもないのです。むしろ、魂の成長の証しであり、凸凹の凹を埋める作業がカルマの修正であり心の傾向性の修正です。時代はどんどん変わり、二度と同じ環境に生まれることはありませんから、凸というのは新しい経験であり、新たな知識と知恵の獲得の部分を言います。

 ですから、この世を縁として、人間はカルマを修正しつつ、また新たなカルマを創り、そうして魂は一段と成長します。永遠の時間の中で、一歩一歩、親である神に向かって神の子は成長を続けていくのです。ですから、今世で良いカルマを身につけることが大切です。

続く

参考 心と脳 http://www.the-seven-seals.jp/mindworld/mindindex.htm
    霊と魂 http://www.the-seven-seals.jp/spiritworld/spiritindex.htm

 

posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | | 09:23 | comments(6) | trackbacks(0) |-
霊的な罪とは何か−1

◆ 1 霊的な罪とは何か

  読者から次のような御意見をいただきましたので、私の《心の旅》を中断して、今日からしばらくこの問題について考えて見たいと思います。

 【私は修行者です。(世間一般の修行団体の危険性は熟知しております)私は思うのですが、反省や謙虚な心は確かに大切かもしれません。しかし、潜在意識(魂)より表面意識(心)にとらわれるのは、ある意味、広い意味で唯物主義的と言えないでしょうか?そして、それ以上に、表面意識の努力で潜在意識を変えられると考えるのは、潜在意識の偉大さ、大きさを否定することともなり、霊的な罪とならないでしょうか?私は一般人でも容易に行える修行によって、魂というものがどれだけ大きいものか知りました。】

1−1 魂と心の関係 

 ここで、《潜在意識(魂)より表面意識(心)にとらわれるのは、唯物主義的である》という説についてまず考えてみましょう。そのためには、魂と心の関係について知る必要があります。

 人間の本質は霊であり生命エネルギーですから、本来、姿形(すがたかたち)がありません。しかし、霊が肉体に宿ることによって、肉体と全く同じ形状の霊的姿を形成した魂となります。その上に肉体と同じ内臓諸器官、細胞組織と同じ霊的組織を持つ幽体という下着を着ており、その胸の付近に約30cm大の心を有しています。

 その心から管上の霊的組織が伸びて脳組織と交差しています。ですから、脳組織は霊的信号を肉体信号に変換し、また神経を伝わる肉体信号を霊的信号に変換する器官です。脳に心も記憶も感情もありません。

 余談ですが、内臓諸器官、細胞組織はそれぞれ別の生命体であり、それぞれが魂を有しています。ですから、人間も動物も複合の生命体なのです。ですから、人間の意志にかかわらず、端的に言えば、眠っていても、意識を失っても、それぞれの諸器官は生命活動を続けられるのです。

 ですから、魂というのは霊が一定の形を持ったときの霊体全体を言うのであり、心はその霊体の核と言えるものです。心の構造につついては、高橋信次師が生前に解説されていますので御参照下さい。

 そうすると、読者の御意見である、潜在意識 = 魂、表面意識 = 心、というのは、定義が異なることになります。心は潜在意識と表面意識の両方から構成されており、10〜15%の表面意識と90〜85%の潜在意識、そういうエネルギーとしての比率になっていると言われています。

続く

参考 心と脳 http://www.the-seven-seals.jp/mindworld/mindindex.htm
    霊と魂 http://www.the-seven-seals.jp/spiritworld/spiritindex.htm

 

posted by: 窪田光治 (くぼたこうじ) | | 11:11 | comments(0) | trackbacks(0) |-